私の元気の秘訣

下半身の感覚がなくなるほど悪化した腰部脊柱管狭窄症と術後感染症との闘い──

嫁はんのおかげで舞台に復帰できました

漫才師 宮川大助さん

夫婦漫才の第一人者である「宮川大助・花子」の大助さんは、15年ほど前から腰痛に悩み、腰部脊柱管狭窄症を患っていました。2017年にようやく手術を受け、術後の感染症と闘いながらも仕事復帰を果たした大助さんに、治療中のエピソードや復帰後の思いを伺いました。

漫才を通じて男は嫁に黙ってついて行く大切さを伝えたい

宮川大助・花子の夫婦漫才は健在で、観客を大いにわかせている

 今年で結成41年めに突入しました。お互いに新鮮味を覚えることもないので、それぞれ思い思いの趣味をする、そんな年齢になったと感じています。例えば、嫁はんはマラソンチームを持ち、僕は日本全国あちこちの山に登ったり、山里に行ったりします。山に登れる健康に感謝しながら、新鮮な空気を吸ったり、山頂から霧の立ち上る幻想的な下界をのぞいたりと、自然の醍醐味を楽しんでいます。

 年に1度か2度、日本人が忘れた〝和の心〟を描いたお芝居もしています。もちろん漫才にも生かされています。僕らの漫才は、お客さんに「しっかり者の嫁はん」と感じてもらえたら成功なんです。日本の男は理屈をこねず、嫁に黙ってついて行く。漫才を通して、そんなメッセージを伝えたいんです。

 腰痛とは15年ほど闘ってきました。実は、スポーツをやりすぎましてね。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(当時は吉本興業)に入ってから、坂田利夫が率いる「アホナーズ」というチームで本格的に草野球を始めたんです。メンバーには「オール阪神・巨人」の巨人さん、「紳助・竜介」の竜介、千原ジュニアなどがいて、僕はエースピッチャーとして活躍していました。「マウンドで死んでもいい」というくらい本気でやっていたんです。

 しかし、僕の野球人生を狂わす事件がありました。試合である将棋クラブに負けましてね。手指の先しか動かさないようなメンバーにです(笑)。第1回戦は僕らのコールド勝ち。ところが、彼らは頭がいいということを忘れていました。次の試合では7失点し、僕は3回も持ちませんでした。この試合がきっかけで、メンバーからの信頼を失い、抑えに回りました。そして、だんだんベンチを温めるようになっていきました。

 野球だけではなく、マラソンも長年続けてきました。家族や仲間と米国・ハワイのホノルルマラソンに参加し、仕事でも空き時間が2時間あったら、10㌔㍍くらいなら走って次の仕事場に移動していました。そして家に帰れば畑仕事を楽しんでいます。そんな中、年とともに少しずつ体に生じていたゆがみが、しだいに腰痛として出てくるようになったんです。

 7年ほど前に「腰部脊柱管狭窄症(以下、脊柱管狭窄症と略す)」と診断され、5年前から激痛に襲われるようになりました。毎朝、七転八倒しながら起き上がり、下着もシャツも汗でびしょびしょ。漫才のときも痛みをこらえ、ズボンが汗だくになっていました。鍼灸や整体、理学療法を受け、鎮痛薬やコルセットを活用して症状を抑えていました。

 2016年12月になると、腰から下の感覚がなくなり、動けなくなってしまいました。お尻や股間を触っても感覚がまったくないんです。しばらくすると感覚が戻ってきて、「何だったんだろう」と不思議に思いました。

 2017年2月に大きな変化が起こりました。よしもと祇園花月での漫才中に、再び下半身の感覚がなくなりました。嫁はんに肩を貸してもらい、お客さんには「ただいま脊柱管狭窄症で、下半身がしびれている最中でございます」といって笑いを取りました。皆さんギャグと思われたでしょうが、ほんとうだったんです。

手術後に2度襲われた感染症も夫婦の愛で乗り越えています

[みやがわ・だいすけ]

1950年、鳥取県生まれ。1979年11月、妻である花子と漫才コンビ「宮川大助・花子」を結成。漫才のネタ作りを手がけ、「いつまでもあると思うな愛と金」のフレーズで知られる。結成以来、「上方お笑い大賞」「上方漫才大賞」などで数々の賞を獲得し、夫婦漫才の地位を確立。夫婦愛を綴った著書『愛をみつけた―大助・花子のおやオヤ日記』(朝日新聞出版)は、のちにドラマ化された。テレビドラマや映画出演などでも活躍。

 祇園の次は、なんばグランド花月(NGK)で同じような事態に見舞われました。NGKは僕の漫才のメインスタジアムですからシャレになりません。病院に直行しました。

 担当の先生から「このままでは下半身の感覚がなくなって、尿や便を垂れ流しする生活が始まります」と告げられ、3月に手術を受けました。結果は大成功。背中を25㌢切りましたが、切り口がわからないほどでした。

 1ヵ月間のリハビリを経て退院するさい、担当の先生から「めったにありませんが、手術後に感染症が起こる可能性があります」と注意を受けました。初めて「感染症」という言葉を聞いたのですが、僕に起こるわけがないと思っていました。

 退院後の経過はとてもよく、杖をつきながらでしたが、歩き回ることができました。腰をかばってネコ背だった姿勢も、ボルトが入っているのでシャキッと伸びました。

 4月末に岩手県大船渡市の復興大使として講演を行ったときのことです。出発の前日に問診へ行くと、傷口を縫い直すことになりました。傷口を止めていた3ヵ所のうち、1ヵ所だけ完全にふさがっておらず、膿が出ていたんです。膿を取り除いたその日の晩に熱が出ました。40度C近い熱の中、3日間にわたって漫才をやり抜きました。

 発熱から5日めに病院に行くと、「ブドウ球菌感染症」と診断され、すぐに再手術。担当の先生から「ボルトの部分に菌が入っている場合、歩行困難になる可能性が非常に高い」といわれて感染症の怖さを知りました。幸い皮膚の感染だけだったので、5月末に退院することができました。

 自宅では、抗生物質を1日4回、真夜中も飲む必要がありました。大阪・新歌舞伎座の公演があったので、「公演中の1ヵ月間は抗生物質を休みたい」と先生に相談したところ、5日間だけやめてようすを見ることになりました。2日後に熱が出て、今度は「グラム陽性菌敗血症」と診断されて再入院。「何で薬をやめたのかな」と反省しましたね。大事には至らず、無事に退院し、いまも抗生物質の治療を続けています。

 仕事に復帰した現在、足のしびれはだいぶよくなりましたが、ひざから下がガクガクしています。立っていると、爪先が浮くんです。カーペットの厚みを利用して、爪先立ちをすると姿勢が安定するので、脊柱管狭窄症の方におすすめです。

 こうして振り返ってみると、夫婦仲がよくてほんとうにありがたいかぎりです。仲がいいから、心配したりめんどうを見てくれたりします。年を取ると、お互いにいろいろ症状が出てきます。僕は血圧が高いので、お風呂に入っていると、嫁はんが10分ごとに見に来てくれます。ベストワイフです。

 人間は不完全なので、自分で行えることは10のうち「5」しかないと思っています。夫婦がそれぞれ助け合うことで、5+5=「10(十)」になって満たされる。バランスがくずれて「×」にならないように助け合うことが大切です。